社会人 30代の時に読んだ本。渋沢栄一の半生記 「雄気堂々」

こんにちわ。

社会人になってから、読んだ本の中で50代になった今も記憶に残っている本を紹介しています。

30代の後半は出張が多くて、新幹線や飛行機の中、宿泊したホテルなんかでけっこう本を読みました。

その中の1冊。

城山三郎さんの「雄気堂々」の話です。

 

この本では、明治時代に実業家として成功を収めた渋沢栄一の半生が描かれています。

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渋沢栄一って?

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)は、幕末から大正初期にかけて活躍したの日本の武士で官僚で実業家です。

第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」と言われているそうです。

理化学研究所もこの人が創設者です。

渋沢栄一は天保11年(1840年)に現在の埼玉県深谷市で生まれました。

渋沢家は豪農で、栄一は家業を手伝う一方、四書五経や『日本外史』を学び、剣術は大川平兵衛より神道無念流を学びます。

その後、一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになります。

主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に慶喜の弟・徳川昭武の随員として、フランスへと渡航します。

そして、パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行し、各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、その社会を見て感銘を受けたそうです。

パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、パリに留学するものの大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)には新政府から帰国を命じられ、帰国しました。

帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会したのち、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、大蔵省に入省します。

大蔵官僚として改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わりますが、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官しました。

退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て、現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置くことになります。

第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東京急行電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれています。

「雄気堂々」

そんな渋沢栄一は三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なり、「渋沢財閥」を作りませんでした。

そんな「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通します。

「雄気堂々」はそんな、渋沢栄一の半生を描いた作品です。

栄一と妻との婚礼の場面から物語が始まり、42歳の時に妻と死別するまでの紆余曲折が描かれています。

タイトルの『雄気堂々』とは栄一が好んだ「雄気堂々、斗牛を貫く」という詩から採られたものです。

こちらの本は、「ビジネスマンが読むべき本」としてビジネス雑誌か何かで紹介されていたので、ぼくも30代の時に読みました。

渋沢栄一は、もともと尊王攘夷の志士志望だったんですが、「高崎城襲撃計画」を立案したり断念したり、いろいろ駆け回っているうちに、なぜか、尊王派の一橋家の家臣になります。

その慶喜が将軍になったことで、栄一はパリ万博の随行に選ばれ、ここぞとばかりに、パリで経済の研究をします。

そして、帰国してみるといつのまにか明治になっていて、新政府のあちこちから引っ張りだこになるわ、いろいろな会社の設立にかかわるわと、実業家として大躍進する話ですね。

実業家としての渋沢が井上馨や西郷隆盛、大隈重信、岩崎弥太郎らとどのように関わったのかとか、慶喜との出会い、クライマックスに登場する岩崎弥太郎との闘いなど、幕末・維新を実業家目線で見ることができる小説です。

最後までおついあい、ありがとうございました。

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